「インバウンド」で注目される浅草、訪日外国人観光客で賑わう理由とは?【連載】浅草ソーシャルおじさんが教える、小さな組織のメディア運営 第1回(1/2 ページ)

口コミ時代のWebとソーシャルメディアは最大の武器。最小限の手間で最大の効果を発揮するSNS動線設計とは。

» 2017年11月17日 15時00分 公開
[飯島邦夫浅草観光連盟事務局]

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外国人観光客でにぎわう浅草・雷門前

 いつ行ってもさまざまな言語が飛び交っている浅草・雷門前。訪日観光客に関するニュースでは真っ先に、ここで撮影された映像が使われます。午前中は雑踏の中に日本人を見つけるのが難しいほどの盛況ぶりです。

 「浅草は浅草寺があって昔から人気の場所だからいいですね」とよくいわれます。それは江戸時代から浅草寺を中心に発展した歴史からだと思います。でも、何もしないのに勝手に人が集まってきたわけではありません。浅草が賑わいを持続し続け、特に海外から熱い視線を注がれているのは、広報活動が寄与するところも少なくないのです。

 浅草生まれ浅草育ちの江戸っ子である私は、浅草の観光連盟事務局次長として、さまざまな行事の企画運営をボランティアで行っています。本業ではITの世界で長年マーケティング業務に携わり、WebサイトやSNSを活用したプロモーションも多く手掛けてきました。その経験を生かし、世界に向けて浅草の魅力を発信するために、他の観光地とはちょっと違った手法による訪日観光客向けのインバウンドプロモーションを実施しています。

 多額の投資ができない小さな組織でも、お金がなくても、工夫次第で拡散力のある情報発信は可能なものです。本連載で、そのエッセンスを紹介していきたいと思います。

執筆者紹介

飯島邦夫
イーウィルジャパン代表取締役CEO/浅草観光連盟事務局次長。1962年東京・浅草に生まれ、浅草に育つ。IT業界における経験が長く、インターネットとリアルそれぞれの施策を組み合わせたマ ーケティング手法で 、さまざまな分野の事業立ち上げに関わる。その一方で個人的な活動として、地元浅草でボランティアとして浅草神社奉賛会事務局次長を務め、浅草の三社祭の催行に関する準備から当日運営、警察やマスコミ対応を行う。2007年に浅草観光連盟事務局次長に就任し、各行事の企画運営とともに浅草の行事を公式情報として写真や動画を交えた記事にまとめ、ソ ーシャルメディアなどを通じて世界へ配信している。


浅草の栄枯盛衰

 江戸時代には江戸三千両といって、1日に千両を稼ぐとされる場所が3カ所ありました。1つは魚河岸。後の2つが、歌舞伎の三座があった猿若町と浅草にあった吉原です。浅草寺を中心とした浅草の賑わいは、現在のディズニーリゾートのようなものでした。観音様以外にも大黒様、弁天様、阿彌陀様など多くの神様がいて、人々はそれぞれが信仰する神様を、定期的にお参りしていました。

 浅草はたくさんの飲食店や商店が立ち並び、人々が楽しむ街として栄えました。さらに時代が流れる中で、昭和に入ると浅草六区に多くの劇場ができ、興業街に成長しました。

 しかし、常に順風満帆であったわけではありません。これまでに浅草は何度となくどん底を経験しています。1911年の吉原大火に関東大震災、そして東京大空襲といった惨事により、何度も焼け野原になっているのです。

 戦後においても挫折はありました。復興とともに賑わいを取り戻し、雷門から仲見世周辺と六区興業街が相乗効果を示して驚くほどの賑わいを見せ、1964年の東京オリンピック開催を機に一層の飛躍を……と思われていたのが、ここで浅草は再び、想定外の衰退期を迎えてしまいます。カラーテレビの普及が、劇場の興行を直撃したのです。また、新宿や渋谷、池袋といった新たな盛り場が台頭するたび、客足は遠のいていきました。

 「浅草の繁栄はもう終わりだ」といわれたこともありましたが、そんな中でも先輩たちは、伝統文化を大切に受け継ぐことで必ず人は戻ってくると信じ、年中行事を続けました。また、行事のない月には新たな行事も作り上げていきました。商店街や個店においても、店構えや街並みを江戸街風の形状に作り替えたり、歴史や文化に基づいた商品を提供したりするなどの努力をしてきました。そのかいあって、浅草は少しずつ人気を取り戻すことになり、年配の方だけでなく若い人までも、歴史や伝統文化を求めて浅草へ来るようになってきたのです。

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