一般ユーザーにとって、生成AIは本当にソーシャルアプリの体験を向上させるものなのだろうか。
生成AIが登場したことで、さまざまな新しい可能性と潜在的なユースケースが切り開かれている。しかし、それらはソーシャルメディアアプリの中でも価値があるのだろうか。
確かに、広告の背景の画像を編集したり、さまざまな目的に合わせて最適化された広告コピーを作成したりするなど、役に立つ実用的な使用例もある。
だが、一般ユーザーにとって、生成AIは本当にソーシャルアプリの体験を向上させるものなのだろうか。
人々はDMを汚染するスパムメッセージや迷惑サイトへリンクするスパムコメント、記念日や誕生日のアップデートを促す人工的なエンゲージメントに長い間不満を抱き続けてきた。これらのタイプの投稿は、不誠実で非エンゲージングで「ソーシャル」体験に何の価値も与えないように感じられる。
しかし今、生成AIにより、ソーシャルアプリはそのようなことをさらに目立たせようとしている。ほぼ全てのプラットフォームが、さまざまなやり方で自動コンテンツ生成を実験している。人間が実際にエンゲージしているかのようにふるまうAIをプロフィールに投稿に使用できるようにしようとしているのだ。
それは、いいことなのだろうか。
ここで、主要なソーシャルアプリにおける生成AIの現状を概観してみよう。
お分かりのように、これらのツールのほとんどは、人間の投稿を模倣し、実物ではない画像を作り出すように設計されている。そして、このようなオプションはすでに山ほど用意されており、意図的であるかどうかにかかわらず、人間による入力を実質的に削減し、排除することさえできる。
なぜ人々はそれを望むのか。なぜ人々はロボットの反応を投稿し、それを自分の考えや意見として通そうとするのか。
仮にクリエイターがそこに価値を見出したとしても、そのような投稿を見せられる消費者はどう思うだろうか。
スパマーや詐欺師は間違いなくこれを好むだろうし、エンゲージメントファーマー(フォロワー数、いいね、コメントなどを増やすことを目的とした偽装行為を請け負う業者)はこうしたツールを使って投稿を「最適化」しようと躍起になるだろう。しかし、そのような投稿が実際にソーシャルメディアでの交流を高めるものだろうか。
もちろん、それは後付けの説明のようなものかもしれない。いまでは18世紀の戦士の姿で自分のプロフィール画像を作れるし、それ自体はクールだ。
生成系AIを使って、あたかも自分がいろいろな場面にいるかのような画像を作り出すのは確かに目新しいし、面白い。しかし、そんなことをどれだけ繰り返そうと、実際には何もしていないことに変わりはない。
ソーシャルメディアは定義上、「ソーシャル」なものであり、人間が他の人間と交流し、自分の経験や、実際の人間の脳を通過したものを共有することで、周りの世界とのつながりをより感じられるようにするものである。そんなソーシャルメディアの普遍的価値は、本や映画を土台に、より深い理解とつながりを促進させることだった。そうすることで、私たちは孤独感を減らし周囲の世界とより深く関わり合うことができたのだ。botによる投稿でそれができるというのか。
残念ながら、事態の悪化は避けられそうにない。実際、LinkedInは“次の10年の製品開発とイノベーション”のために、AIを中心に基盤を再構築しているという。つまり、AIの統合が進み、botが生成するコンテンツが増えるということだ。そして、これらのツールは関連性を維持するために最新のトレンドに反復し続けるので、回路を流れる、より多くのAI生成コンテンツの上でトレーニングを重ねることにもなる。
つまり、AIツールはますますAIの応答によって強化され、更新のたびにプロセスから人間の入力がますます希釈されるようになるのだ。
「ソーシャル」な側面は、統合されるたびに自動化され、陳腐化し、人間味を失っていく。もちろん、ソーシャルアプリ以外でもAIツールは使われているのだから、統合されようがされまいが、同じ目的で利用されるだろうという反論もある。それは部分的には正しい。それでも、ストリーム内に追加し、人々がボタンをタップするだけで簡単にレスポンスを生成できるようにすることは、どちらにしても間違った方向への一歩のように思える。
AIツールが役立たずだと言いたいわけではない。前述したように、最適化され簡素化されたツールには、人間の創造を補完できる実用的なユースケースがある。
しかし、ソースコードから人間性を消し去ってしまうことは、シンプルに言って、価値を生み出す道ではない。
そして、私たちが気付こうと気付くまいと、生成AIの変革は、今後さらに大きな方向転換を遂げることになるだろう。
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