ホンダが7000人で取り組むデータ分析――「パッションドリブン」を「データドリブン」で支える自動車業界の100年に1度の激変期を乗り越えるために

ホンダが全社を挙げてデータドリブン文化の醸成に取り組んでいる。その真意について、推進者に話を聞いた。

» 2023年11月28日 07時00分 公開
[冨永裕子ITmedia]

 世界の自動車業界におけるトップブランドの一つとして知られるホンダ(本田技研工業)。自動車はもとより発電機や耕運機、除雪機などの汎用製品、船外機など、さまざまな事業を展開している同社は近年、小型ジェット機やロボティクスなどの新領域にも果敢に進出している。もちろん、主力の自動車においてもEV(電気自動車)や自動運転車など新しいトレンドに取り組んでいるのは言うまでもない。

 「現在はまさに100年に1度の変革期」と語るのは、本田技研工業 ソフトウェアデファインドモビリティ開発統括部 データドリブンソリューション開発部 顧客理解基盤開発課課長 チーフエンジニアの小川努氏だ。データ分析のエキスパートとして知られる小川氏は、ホンダグループで7000人を超えるユーザーが利用するデータ分析基盤の構築に携わったキーパーソンでもある。今日、トップブランドにおいてもなおデータドリブン文化の情勢が必須である理由について、小川氏に話を聞いた。

クルマメーカーにとっての顧客理解

ホンダの小川努氏

 小川氏は新卒で本田技術研究所(本田技研工業の研究開発専門会社)に入社して以降、四輪開発シャーシの設計から研究者としての経験を歩んできた。転機は2016年、商品・感性価値企画室に異動した際に訪れた。この部署は、社内の関係部門と連携して顧客理解の支援をする、マーケティング部門に相当する。直接商品を販売するわけではないが、研究者時代と異なり「お客さまにとって気持ちの良い運転とは何か」という、人を理解することが仕事の中心となった。ここでの経験は現在、顧客理解基盤開発課でマーケティングリーダーを務める小川氏の原点と言える。

 小川氏のチームにとっての顧客理解の対象は、「明日、ホンダのクルマを買ってほしい人たち」ではなく、「将来、ホンダのクルマを買おうと思ってくれる人たち」である。通常、クルマの開発には4、5年の時間が必要だ。1つのモデルを市場に投入してからさらに4年、最低でも8年のライフサイクルでビジネスを設計しなくてはならない。しかし、現実的には5年も経てば社会構造や顧客の価値観は大きく様変わりしてしまう。当然、5年後の社会の姿を予測しても外れる可能性の方が高くなる。そこで、ホンダは市場構造の現状と2、3年後の予測を毎年行いつつも、次年度の現状を前年度の予測と照合し、差異の修正と予測のアップデートを行うアプローチを選択している。

固いデータと柔らかいデータ

 この市場の先読みに役立てているのがデータだ。ホンダでは、社内外のデータを大きく「固いデータ」「柔らかいデータ」「お金のデータ」の3つに分類している。固いデータとはクルマに関するデータ、柔らかいデータとは人間の感情や行動に関するデータのことだ。例えば、1人の顧客がクルマを買おうと考えたとする。中古車なのか、新車なのか。ホンダのクルマに乗るのは初めてなのか。リピーターのお得意様は、なぜホンダのクルマをいつも買ってくれるのか。普段の生活では何を大切にしていて、その価値観に即した行動はどんなものなのか。「顧客理解は市場構造を理解することでもある」と小川氏は説明する。当然、顧客の価値観は一人一人違うが、個人単位では難しい。データを使い、セグメント単位での顧客理解を試みる。その切り口を考えることも小川氏の仕事のうちだ。

Qlik活用のきっかけは“シャドーIT”

 ホンダがデータ活用のために全社で導入しているのが、独自の連想分析エンジンを搭載したQlikのデータ分析ツール「Qlik Sense」である。導入はIT部門主導で一気に進んだわけではなく、小川氏が当時いた部署でスモールスタートし、全社に拡大する形で進んだ。

 IT部門からのサポートなしで、自分たちだけでのデータ分析環境を構築することにつながったのは、チーム内に小川氏も含めCAE(Computer Aided Engineering)環境を作れる人材が多くいたことが大きい。CAEは、コンピュータを使用して製品やプロセスの設計や解析を行う技術を指す。自動車業界は他業界と比べてコンピュータ環境でのシミュレーションを行うことが多い。クルマの設計は複雑で、かつ実機を試作しての検証には多大なコストがかかる。一方で、人命にかかわる品質の欠陥を見逃すことは絶対にできないとあって、CAEの利用が進んでいるのだ。

 データ分析を始めた当初を振り返り、小川氏は自らを「シャドーITの代表だった」と、冗談交じりに語る。「サーバを設置し、ストレージとつなぎ、データ可視化の環境を構築するまではすぐだった」と語る。可視化から入ったのは、「データを理解することに優れていたこと」が大きな理由だ。

 当時からホンダには「R」や「Python」を使いこなすデータサイエンティスト人材が充実してはいた。しかし、データ分析とグラフの描画は別のものだ。「Qlikであれば、自分でクラスタリングした結果を別のファイルと結合すれば、すぐにグラフのフィルターを使えるようになる。そして、フィルターの操作を行う過程で、分析前に立てた仮説を検証できる。理解のための洞察を得られるところが良かった」(小川氏)

 可視化のためのツールの選択肢は他にもあるが、小川氏が説明した用途は、よくある定型業務のデータの可視化とは異なる。研究所が持つシミュレーション結果のような固いデータと、クラスタリングや特徴量の抽出をした後の柔らかい顧客データを合わせ、インサイト獲得の道具としてQlikを使っている。2023年4月に行われたQlikの年次イベントで、ホンダは日本企業として初めて「2023 Qlik Global Transformation Award」を受賞した。全社で7000人規模にまで利用が拡がったこともさることながら、他社とは違う使い方が評価されたのではないかと、小川氏は見ている。

現場の強い日本の製造業ならではの工夫

 得られたインサイトを他の人に説明する際もQlikで出力した結果を見せれば説得力が高まる。コミュニケーションの道具としての利便性も多くの支持を得て、Qlikの利用は拡大した。今ではDX部門がQlikをホンダの標準ツールの一つとして定め、以降は全社に定着するに至っている。

 とはいえ、道具を提供するだけでは7000人までユーザーは増えない。小川氏の部署が力を入れてきたのが全社推進を目的とする2つの取り組みである。

 1つが、社内コンサルティングだ。社内での評判がさらなる評判を呼び、今では年間120〜130件を手掛けるまでになっている。「始めた当初、よく聞いてみると中には単に分析がやりたいだけの相談もあったが、今ではプロジェクト化して一緒に進めるような大きな課題解決案件も増えてきた」と小川氏は話す。

 もう1つが、事例を共有する社内Webサイトの運営だ。そこで公開された記事を読めば、社内でどんなデータ分析が行われているか把握することができ、コミュニティー活動の基盤として機能している。また、相談窓口がどこにあるかも分かる。そこからの問い合わせがコンサルティング案件に発展し、活動がますます拡大してもいる。

 データを積極的に使っていく土壌は、一朝一夕にできるものではない。日本企業、特に製造業がDXに取り組む際にぶつかる壁が、現場の強さだ。日本では成功体験を持つ人がリードする組織が多い。海外企業のような人材の流動性を前提とした組織ではない分、経験豊富な現場の人たちに、ありきたりのデータを見せるだけでは受け入れてはもらえない。ましてや分析結果と現場の認識にズレがある場合、「何を言っているんだ」と否定されるだけだ。

 データから導き出したインサイトを、どうすれば現場に受け入れてもらえるのか。現場から信頼を得るという難しいテーマに対し、小川氏のチームが実践しているのが「立てた仮説の証明の道具としてデータを使うこと」だ。「俺がやった方が早い」と思っている相手からの信頼を得るには、相手が漠然と考えているが言語化されていないことを示した上で、プラスアルファのインサイトを示す。すると、「ほら、言った通りだろ?」で終わらず、「あれ、そうなの?」と最初は興味なさそうに聞いていた相手の関心を引き出すことにもつながる。そこまでできれば、「じゃあ、やってみるか」と、行動を変えるきっかけもできるはずだ。

 「現場の勘、経験、そしてドメイン知識を変数化することがわれわれの仕事。だからビジネス部門、データ部門、分析部門での3つの経験が大事」と小川氏は語る。

「マーケットイン」か「プロダクトアウト」か

 2021年4月に三部敏宏氏が社長に就任し、2040年に向けてのEVシフトを急ぐホンダにとって、モビリティーに対する顧客の価値観の変化を先読みすることは、ものづくりの変革とも密接に関わる。

 いわゆる「マーケットイン」の考え方だが、これを単純に「顧客が求めるもの全部を設計仕様に反映させる」と考えてはならないし、小川氏はそんな100%の顧客向け仕様を明らかにしたいとも思っていない。そもそも皆の期待に応える「平均値」の製品を欲しいと思う顧客は存在しない。ホンダがやりたいのは、「顧客の期待を超えること」だ。その実現には、最低でも「顧客は何を期待しているか」を言葉で説明できなくてはならない。だからこそ、データを使って将来の市場の先読みに取り組んでいる。

 また、顧客の期待を超えるアイデアは、1人の天才のひらめきから生まれることがしばしばあるが、それは結果論だ。組織を構成するのは天才ばかりではない。天才のひらめきが発端のインサイトを個人の感覚にとどめるのではなく、組織で働く普通の人たちにも共有する必要がある。そのためにもデータに基づく定量的な裏付けが必要になる。

 データをぼんやり眺めるだけの可視化だけでは、欲しい答えは見つからない。探索を補うのはパッションだ。逆にデータはパッションを裏付ける存在でもある。「データドリブン」と「パッションドリブン」は決して優劣を競うものではなく、相互に支えながら顧客理解を前に進めるための手法というわけだ。

執筆者紹介

冨永裕子

冨永氏

とみなが・ゆうこ フリーランスのITアナリスト兼ITコンサルタント。2つのIT調査会社でエンタープライズIT分野におけるソフトウェア分野の調査プロジェクトを担当する。その傍ら、ITコンサルタントとして、ユーザー企業を対象としたITマネジメント領域を中心としたコンサルティングプロジェクトも経験する。新興領域、テクノロジーとビジネスのギャップを埋めることに関心あり。


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